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漢詩四コマ劇場

漢詩(中国古典詩)を四コマ漫画で描いた作品を、200本以上掲載しています。

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「将東遊題壁」月性



男児立志
出郷関
若無成死不還
埋骨豈惟墳墓地
人間到処有青山


日本の幕末の僧、月性(げっしょう)(1817-1858)作。
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「嶺上逢久別者又別」権徳輿



十年曾一別
征路此相逢
馬首向何処
夕陽千万峰

権徳輿(けんとくよ)(759−818)作。中唐の政治家。
「嶺上久別の者に逢いて又た別る(れいじょう きゅうべつのものにあいて またわかる)」。
旅の途中、山の上で、10年前に別れた者と出会い、また別れた。「夕陽千万峰」、かなり広大な光景が広がっていそうです。

「癸巳五月三日北渡三首 其三」元好問



白骨縦横似乱麻
幾年桑梓変龍沙
只知河朔生霊尽
破屋疎煙却数家

元好問(げんこうもん)(1190−1257)作。
「癸巳五月三日北渡(きし ごがつみっか きたにわたる)三首」より其三。
モンゴル軍(のちに元を建国)に滅ぼされた、金の末期に生きた詩人。
金の滅亡の惨状を詩に残し、滅亡した祖国の史書編纂をし、モンゴルに仕官することはなかったという。

井波律子著『故事成語でたどる楽しい中国史』(岩波ジュニア新書、2004、190-191ページ)によると、のちに清の学者が、元好問の詩をこう評し、それは詩人の皮肉な運命を表現する成句となったという。

「国家の不幸は 詩家の幸い (こっかのふこうは しかのさいわい)
 賦して滄桑に到れば 句 便ち工なり (ふして そうそうにいたれば く すなわち たくみなり)」

(国家の不幸は詩人にとっては幸い。世の移り変わりをうたうとき、詩はたちまち巧みになる)

〔清〕趙翼 「題遺山」
身閲興亡浩劫空 両朝文献一衰翁
無官未害餐周粟 有史深愁失楚弓
行殿幽蘭悲夜火 故都喬木泣秋風
国家不幸詩家幸 賦到滄桑句便工

「賦得古原草送別」白居易



離離原上草
一歳一枯栄
野火焼不尽
春風吹又生
遠芳侵古道
晴翠接荒城
又送王孫去
萋萋満別情

白居易(はくきょい)(772−846)作。
「古原の草を賦し得て、別れを送る」。
「古原の草」というお題を元に、16歳の白居易が作った作品。

※ミクシィの「漢詩・漢文・漢籍」コミュの、叔夜さまの書き下し文と訳を大いに参考にさせていただきました。

「洛陽早春」顧況



何地避春愁  
終年憶旧遊  
一家千里外  
百舌五更頭  
客路偏逢雨 
郷山不入楼 
故園桃李月  
伊水向東流  

顧況(こきょう)(725−814?)作。
早春の愁い。

※ミクシィの「漢詩・漢文・漢籍」コミュの、叔夜さまの書き下し文と訳を大いに参考にさせていただきました。

「題西林壁」蘇軾



横看成嶺側成峰
遠近高低各不同
不識廬山真面目
只縁身在此山中

蘇軾(そしょく)(1036−1101)作。
「西林の壁に題す」。
「廬山の真面目(「ろざんのしんめんもく」。「ろざんのまじめ」と読みそうになった…)」という言葉の出典だそうです。
廬山には多数の峰があるので、その全体が計り知れない…というたとえだそうです。確かに、「廬山」でグーグル画像検索しても、色々な画像が出てきますね…。

「澄邁駅通潮閣」蘇軾



余生欲老海南村
帝遣巫陽招我魂
杳杳天低鶻没処
青山一髪是中原

蘇軾(そしょく)(1036−1101)作。
「澄邁駅の通潮閣(ちょうまいえきのつうちょうかく)」。蘇軾65歳の作(66歳で死去)。新しく即位した皇帝に罪を許され、流刑地から戻ることになった時の詩。2コマ目は、『楚辞』(招魂)にある、天帝が巫に屈原の魂を呼び返された…というのが元ネタだそうです。屈原の不遇になぞらえたようです。
海南島、ネットで画像検索して見ましたが、いい所だ…。南国のリゾートといった美しい南の島。でも、中国の南の果ての場所なので、中央から流された蘇軾にしてみれば、あまりに違いすぎる光景は、絶望的に見えたかもしれません。今でこそテレビや写真で南の島の映像が見れて、行った事がない所でもおなじみの光景に見えますが、全然見たことがない状態で流されたら、それこそ猛烈なホームシックにかかりそうです。
海南島の北向かいに雷州半島があるんですが、思いのほか離れてなかった(30キロあるのかなあ…)ので、たぶん手前に半島が見えて、その奥にうっすら中原の山々が見えるのかもしれませんが、ネット上で光景を探しきれませんでした…。見つかったら修正します…。

「香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁」白居易



日高睡足猶慵起
小閣重衾不怕寒
遺愛寺鐘欹枕聴
香炉峰雪撥簾看
匡廬便是逃名地
司馬仍為送老官
心泰身寧是帰処
故郷何独在長安

白居易(はくきょい)(772−846)作。
「香炉峰下(こうろほうか) 新たに山居を卜(ぼく)し 草堂初めて成り 偶(たまたま)東壁に題す」五首連作の第四首。
左遷され、廬山の地にやってきた白居易の詩。
やはり、「遺愛寺の鐘は枕を欹てて聴き 香炉峰の雪は簾を撥げて看る」が有名ですね。わが国の平安時代のエッセイ、『枕草子』で、清少納言が、中宮定子さまに「香炉峰の雪はいかならむ?」と聞かれて、この詩をふまえて簾を巻き上げたお話がおなじみです。
枕を欹てる、というのは、枕を傾ける、枕で耳を傾ける、枕に寝そべって…など、色々な解釈があるそうです(『中国名詩集』松浦友久著)。「この時代、どんな枕で、傾けるって一体どういうことだろ…」ということで、寝そべって、で描きました。

「枯魚過河泣」無名氏



枯魚過河泣
何時悔復及
作書与魴鱮
相教慎出入

漢代の歌謡「枯魚(こぎょ)河を過ぎて泣く」。
出処進退の難しさをユーモアを交えて歌う。1コマ目の、干し魚が河を過ぎるという状態がシュールで、いまいち絵にするとなるとよくわからないのですが、イメージで描きました。

「撃壌歌」無名氏



日出而作
日入而息
鑿井而飲
耕田而食
帝力何有於我哉

中国の神話上の名君・(ぎょう)が、自分の政治を民がどう思っているのか気になって、こっそり町にいくと、老人が歌っていた…という歌だそうな(詳しくは、ウィキペディアをどうぞ)。
下々の民が、「天子の力なんてオレに関係ないね」と言っていられるのは、世の中が平和な証拠、というのは真理ですね。

「江南」無名氏



江南可採蓮
蓮葉何田田
魚戯蓮葉間
魚戯蓮葉東
魚戯蓮葉西
魚戯蓮葉南
魚戯蓮葉北

漢代の歌謡。娘たちが歌う、蓮の実をつむ歌。
一人の娘が2コマ目までを独唱して、3コマと4コマ目のフレーズでみんなで合唱するらしい。蓮と戯れる魚は、男女のあいびきのたとえ。

『楚辞』より「離騒(一部)」屈原



…………………

乱曰 已矣哉
国無人莫我知兮
又何懐乎故都
既莫足与為美政兮
吾将従彭咸之所居

『楚辞』より長い作品である「離騒」のラスト部分。「乱に曰く」は、長い作品があって、最後にその内容のまとめを言うときのフレーズです。
屈原(くつ・げん)(前343?−前278?)作。
中国の戦国時代の末、楚の国の滅亡が迫る中、楚の貴族として生まれ、国のために必死に奮闘するも、政治の場から退けられ、やがて楚の都が秦の国によって陥落すると、絶望して入水自殺した。
長い作品ですが、全文の現代語訳をネットで探しつつ読んだら(すみません、岩波文庫の『楚辞』も持ってますが、解釈部分の言葉が古めかしくて難くて…)、美しい文と激しい絶望に泣けてきました…。
「又何ぞ故都を懐わん」と言ってますが、国を想う熱い気持ちが、裏にあるのでしょう。
後世の憂国の士の、心の叫びの代弁者、理解者となった作品です。

「褰裳」(一部)詩経・鄭風」

 

子恵思我
褰裳渉溱
子不我思
豈無他人
狂童之狂也且

子恵思我
褰裳渉洧
子不我思
豈無他士
狂童之狂也且

周代の中国最古の詩篇「詩経」より「褰裳(けんしょう)」、女の子が好きな男の子にいうセリフの恋歌。
今で言うツンデレでしょうか。
川を渡るのは、男だったり女だったり男女二人でだったり、解釈はいろいろのようでした。狂童之狂也且は、悪口のニュアンスのようです。
2番は、単語違いのほぼ同じ内容のリフレインです。

「無衣」(一部)詩経・秦風」 



豈曰無衣
與子同袍  
王于興師  
脩我戈矛  
與子同仇  

豈曰無衣  
與子同沢  
王于興師  
脩我矛戟  
與子偕作  

豈曰無衣  
與子同裳  
王于興師  
脩我甲兵  
與子偕行

周代の中国最古の詩篇「詩経」より、秦の国の兵士の歌。
仲間同士で歌いあって、秦の兵士たちは結束したのかな…。
2番、3番は、単語違いのほぼ同じ内容のリフレインです。

「陳伯予過、喜予強健、戯作」陸游



南宋の陸游(りくゆう)作(1125−1210)。
「陳伯予(ちんはくよ)過ぎられ、予(われ)の強健なるを喜ぶ、戯れに作る」。
陸游84歳の作。

2011年11月11日の読売新聞にて、井波律子先生が詩をご紹介されていた記事に感銘を受けて描きました。
ネット上で元の漢詩のテキストを探そう…と思ったら、ヒットしませんでした…。素敵な詩なのに、あまり有名な詩ではないんでしょうか。

ご飯を炊く道具である「甑」は、新聞記事では日本語訳が「釜」になっていまして、絵では「甑」を検索して書いたんですが、古い道具のようなので、南宋時代に使っていたかは謎ですね…。貧しくてご飯がたけない様を、「甑中生塵、釜中生魚(甑に塵がつもって、釜に魚がわく)」という古いフレーズがあるそうなので、単なる慣用句かもしれません。

あと、絵的に蘇軾の「縦筆」と、イメージがかぶりますが(貧しいおじいさん→でも顔色がいい)、私のイメージが貧困なだけで、直接意識して作られたのかは謎です。
でも、たまに、作品を描いていると、過去の作品とイメージがかぶってあれ?という時があります。

「碩鼠」(一部)詩経・魏風



碩鼠碩鼠
無食我黍
三歳貫女
莫我肯顧
逝将去女
適彼楽土
楽土楽土
爰得我所

(2節、3節省略。同じ内容の単語違いのリフレインです)
周代の中国最古の詩篇「詩経」より「碩鼠(せきそ)」。
重い税金に苦しむ農民の歌。

「自嘲」魯迅



運交華蓋欲何求
未敢翻身已碰頭
破帽遮顔過鬧市
漏船載酒泛中流
横眉冷対千夫指
俯首甘為孺子牛
躱進小楼成一統
管他冬夏与春秋

魯迅(ろじん)(1881−1936)作。
「華蓋」は、星の名前で、現在のカシオペア座あたり、坊主にはよいが俗人には悪い星だそうです。
「千夫の指」は、千人に指を指されたものは病気でなくても死ぬ、という言葉があるそうです。
この作品で有名なのは、

眉を横たえて冷やかに対す千夫の指
首を俯れて甘んじて為る孺子の牛

こちらのフレーズでしょうか。
現代の中国では、「孺子」を人民大衆を指すと解釈して、「敵には立ち向かい、人民には優しくする」というフレーズとして有名のようです。


※『魯迅全集』の第9巻(学研、1985)の「自ら嘲(あざけ)る」、入谷仙介氏の訳を参考にいたしました。

「江南逢李亀年」杜甫



岐王宅裏尋常見
崔九堂前幾度聞
正是江南好風景
落花時節又逢君

杜甫(とほ)(712−770)作。
「江南にて李亀年に逢う」。杜甫は、この年の暮れに亡くなるという、晩年の作。玄宗皇帝の華やかな時代、貴族の邸宅で歌っていた、名歌手・李亀年(りきねん)と偶然にも再会する。今や、都は安史の乱で荒れ、老いた杜甫も李亀年も、都から遠い江南の地をさすらう身。

「浪淘沙令」李煜



簾外雨潺潺
春意闌珊
羅衾不耐五更寒
夢裏不知身是客
一餉貪歓

独自莫憑欄
無限江山
別時容易見時難
流水落花春去也
天上人間

唐の後、五代十国、南唐の後主、李煜(りいく)(937−978)作。
「浪淘沙令(ろうとうされい)」。詩ではなくて、「詞」になります。南唐滅亡の後、宋の都に幽閉されていたときの作。「天上 人間」は、名文句です。

「人日立春」羅隠



一二三四五六七
万木生芽是今日
遠天帰雁払雲飛
近水遊魚迸氷出

羅隠(らいん)(833−909)作。
「一二三四五六七」とは、すごいフレーズです。
立春と人日(旧暦の1月7日)が同じ日だった時の作であるもよう。
立春って…旧暦の1月1日だと思いこんでいましたが、違うらしいです…(約30年に一度、重なったりすることもあるらしい)。

※『漢詩を読む 冬の詩100選』(石川忠久著、日本放送出版協会、1996)を参考にいたしました。

「梅花」蘇軾



其一

春来幽谷水潺潺
的皪梅花草棘間
一夜東風吹石裂
半随飛雪度関山



其二

何人把酒慰深幽
開自無聊落更愁
幸有青渓三百曲
不辞相送到黄州

北宋の蘇軾(そしょく)(1036−1101)作。
「梅花(ばいか)」二首。
政治を誹謗したと讒言され、牢獄にいた後、黄州に左遷される時の作。

※『蘇東坡詩選』(小川環樹・山本和義著 岩波文庫 1975)を参考にいたしました。

「梅花絶句 其三」陸游



聞道梅花坼暁風
雪堆遍満四山中
何方可化身千億
一樹梅前一放翁

南宋の陸游(りくゆう)作(1125−1210)。
全六首の、其の三。

※『漢詩を読む 冬の詩100選』(石川忠久著、日本放送出版協会、1996)を参考にいたしました。

「雪梅」盧梅坡



其一

梅雪争春未肯降
騒人閣筆費平章
梅須遜雪三分白
雪却輸梅一段香



其二

有梅無雪不精神
有雪無詩俗了人
薄暮詩成天又雪
与梅併作十分春

南宋の盧梅坡(ろばいは)(南宋末)の作(作者は方岳とする説あり)。
二首連作で、其の一、および、其の二。

※『漢詩を読む 冬の詩100選』(石川忠久著、日本放送出版協会、1996)を参考にいたしました。

「山園小梅」林逋



衆芳揺落独暄妍
占尽風情向小園
疎影横斜水清浅
暗香浮動月黄昏
霜禽欲下先偸眼
粉蝶如知合断魂
幸有微吟可相狎
不須檀板共金尊

北宋の林逋(りんぽ)(967−1027)作。
梅の詩といえばこれ、という宋代の名詩。
「疎影横斜水清浅 暗香浮動月黄昏」は特に有名なフレーズだそうです。

「己亥雑詩 其五」龔自珍



浩蕩離愁白日斜
吟鞭東指即天涯
落紅不是無情物
化作春泥更護花

清の詩人龔自珍(きょう・じちん)(1792−1841)は、中国が激動の時代を迎えるアヘン戦争(1840年)前夜を生きた人物です。
陳舜臣の小説「阿片戦争」にも登場します。
詩人の鋭い感性で時局を見つめ、国を憂いているのに、官僚としては国を動かす立場に出世できない…。
この詩は彼が官界を退いた時の詩です。

下のイラストは、同じ詩を描いた、「御待堂」さまの作品です。

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